プーシキンの家 博物館 へ
2020年1月11日、プーシキンの家 博物館を見学してきました。
プーシキンが亡くなる前の4ヶ月間、家族とともに暮らした共同住居(クバルチーラ)がプーシキンの家 博物館として保存されています。
博物館はエルミタージュ美術館のすぐそば、モイカ運河沿いの今回宿泊したホテルから150mほどの場所にありました。
アレクサンドル・セルゲイヴィチ・プーシキンは、現代ロシア語の確立者と言われています。彼はそれまでの古典的な規範文体にとらわれず、文語表現と生きた会話表現を融合させた新しい表現を用いて多くの作品を世に出したことから、そのように呼ばれているとのこと。彼の作品は、現在もロシア人が書き、話している言葉で書かれていて、ロシア人なら彼の名を知らない人はいないというほど国民に愛されている偉大な詩人です。
現在も、学校の教科書には必ずプーシキンの作品が取り上げられ、生徒たちは作品の一節を暗唱させられると聞きます。なので、彼の作によるオペラ「エフゲニー・オネーギン」をみると、学校の授業を思い出す人が多いのだそうです。
プーシキンが晩年、実際に作品を執筆していた机
当時の社交界に広まった、フランス人士官ジョルジュ・ダンテスがプーシキンの美しい妻ナタリア・ゴンチャロワに気があるという噂に端を発し、妻の不倫を示唆する匿名の手紙をきっかけに、妻の名誉を守るためプーシキンはダンテスに決闘を申し込みます。しかし、間もなくダンテスがナタリアの姉エカテリーナと結婚したことから、彼は決闘の申込を撤回します。しかし、その後もしばしば悪い噂を流布され続けたことから、彼は再びダンテスに決闘を申し込み、ついにペテルブルクの郊外で決闘が行われることになります。
プーシキンが晩年、作品を執筆していた書斎
ダンテスの放ったピストルの銃弾はプーシキンの腹部にあたり、深手を負ったプーシキンは、その2日後にこの家の書斎で息を引き取ります。
プーシキンは、この写真の奥に見えるソファーで息を引き取ったのだそうです。
プーシキンの妻 ナタリア・ゴンチャロワの部屋
プーシキンが家族とともに暮らした居間
当時の暮らしぶりを忍ぶプーシキンゆかりの作品の展示コーナー
プーシキン直筆の原稿も保存されていました。
プーシキンが暮らしたクバルチーラ(共同住居)の中庭
今年は130年ぶりの暖冬のため、真冬の1月の上旬にもかかわらず、中庭の芝生が青々としていました。この季節、例年なら真っ白な雪に覆われているはずでした。
サンクトペテルブルクを訪れる機会があったら、是非、プーシキンの家 博物館にも足を運んでみてください。